最近は小説を読むだけで一日が終わることも珍しくなくなった。このご時世だし、良い機会だからと昔に読んだ本を改めて購入して耽読している。

もともと詰め込んだ働き方をしないところに、さらに時間ができた。だからといって大手を振って撮影しに行くわけにもいかない。我が家の周辺は複数のマンション工事音が断続的に鳴り響いており、その意味するところ、汗水流して働いている人達に囲まれているということで、焦りにも似た思いがしないでもないが、おもむろに窓を閉め、文庫本を手にとり本の世界に沈んでゆく。

思えば人生で一番多くの時間を読書に費やしたのは十代の頃だった。高校二年生になると全く学校に行かなくなり、持て余した時間で文庫本に読みふけった。お金もないので他の選択肢がない。といって文学青年というわけではない。要は暇つぶしだった。

朝、学生服に着替えて、何食わぬ顔で家を出て、最大限の演技力をもってして学校に病欠の連絡をいれる。その後は両手に持ってあまりある自由時間。人目を避けるようにして馴染みの喫茶店に滑りこむ。そこは学生服の若造にも文句を言わず、あまつさえ煙草の火を貸してくれるような、年老いたマスターが一人で切り盛りする店だった。奥に一番良いソファー席があったが、学生服で陣取るほどに図々しくはなれなかった。テーブルがゲーム台だった。一日中珈琲とトーストと煙草の匂いがした。自分が生まれ育った大阪の千里ニュータウンにある店だった。

今でも文庫本を開けば、あの喫茶店の匂いがするような心持ちがする。先日ふと思いたって、喫茶店のあった場所をGoogleストリートビューで調べてみた。さすがに閉店して、百円均一のお店にでもなっているだろうと思っていたら、信じられないことにまだ残っていた。もう二十五年は行っていない。さすがにマスターはご健在とは思えない。後を継いだ方がいるということか。テーブルはまだゲーム台なのだろうか。

ちょうど一件、関西方面の仕事が保留になっていた。緊急事態宣言もあけたのでそろそろ決まるかもしれない。ワクチンも接種済みで万全だ。その喫茶店に寄れるだろうか。絶対行きたい。鈴の鳴る扉を開けると、四半世紀前の自分が座っていそうで怖い。いやいたら面白い。

話すことがたくさんある。まずは煙草は取り上げねばならぬ。そして、後に高校を辞めること、三十五歳まで非正規雇用なこと、急に写真家になったこと、大阪を離れ東京に住んでいること、カミュの「ペスト」さながらの出来事が起こったこと、志賀直哉の良さがわかったこと、それなりに幸せに生きていること。

そのあたりを話してやると、学生服の自分は驚愕して椅子から転げ落ちるかもしれない。そうならないように、奥の一番良いソファー席に座りたい。