先日、仕事で岐阜県を訪れた。東京からは自分と仕事仲間一人。道中の車内で彼とNFTや仮想空間の話題になり、自分はといえば理解できるようなできないような。ひとかどの見識のある彼の話題についていくのに必死であった。世の中の流れが速いのか、はたまた自分が遅いのか。こうやって気が向いた時にブログを書いたりするだけだと、取り残されている気持ちにならないでもない。

さて目的地の岐阜では、岐阜産の木材を使った家づくりの一端を取材させていただいた。森の案内を担当した女性の職員の方が、森で学んだり働いた経験を話してくださった。杉や檜を撮影しながら伺っている話の折に「“山歩き三年”といいますし」と、彼女がつぶやいたのが耳に残った。正確な意味を伺うことなく会話が流れてしまったが、林業や木材産業の場において「まず三年は山を歩け」ということだと理解した。

木が家の材料として使えるようになるのは植えてから約50年かかる。苗木を植える準備をし、植林し、下刈りや枝打ち、間伐など手入れをして育成し、伐採し、また苗木を植える準備をするという流れを繰り返し、循環資源としての木が丁寧に育てられる。そういった長い時間軸のひととき、小一時間、カメラを携え撮影しているだけの点である自分。その実感に妙な安心感を得る。

その安心感は緑の色彩や、頬をなでる風や匂い、鳥の鳴き声、光の差し込みで補強、あるいは補正される。なんとなくこう、時間的、空間的に大きなものに寄り添ってる感じがあるわけで。点である自分が正当化される感じがあるわけで。

この森に来るまでの、車内で話したことを思い出していた。仮想空間でも、こういった安心感を得る時が来るのだろうか。