先日、対談記事の仕事で写真を撮らせていただいた方が、過去に日経新聞の「私の履歴書」で連載されていたので拝読した。日経電子版には月に4,300円も払っているのに、日々のニュースをほとんど読んでいないので、ここぞとばかりに回収した気持ち。「私の履歴書」は、著名な企業経営者や文化人が自身の半生を振り返る日経新聞の名物コーナーで、日経電子版で読むことができる連載は限られているものの、この機会に何人かの連載を面白く読んだ。
功成り名遂げた方々なので、ひとつひとつのエピソードの重みが半端ない。それにしても人生の節目の出来事を、小説家が描写するがごとく覚えておられることに驚かされる。もちろん記憶に刻むに値する経験だし、かつ時代を彩る証人に囲まれていることが偉人と一般人との違いだなと得心した。
さて、その一般人たる自分を振り返ってみると、そういった(自分にとって)重要だと思える時の記憶がほとんどないか曖昧だ。例えば35歳で生まれ育った大阪を離れ東京に出てきた、といえば人生の節目とも思えるが、そんなに大昔のことではないのに覚えていない。大阪で家族とどんな会話をして、どのように新大阪駅から東京駅に到着したのか。東京駅から当時の住所の西荻窪までの道すがら、どんなことを考えていたか。気持ちいいくらい、きれいさっぱり忘れてしまった。
そうかと思えば、東京生活初日の昼食のことを鮮明に覚えていたりする。西荻窪の駅前のインドカレー屋さんで、お釣りを間違えられた。初日だしってことで指摘せずに店を出ると、件の店員さんが「間違えました!」と叫んで走ってきて渡された200円のあの輝き・・・。いや、どうすればいいの、このエピソード。
ことほどさように記憶とは曖昧なもので、こんにちインタビューなんかで自分のことを話す機会があったとて、それは本当のことなんでしょうか、どうなんでしょう。となると前記事でふれた仮想空間と現実でいえば、仮想空間の方がログが残って事実に即しているということになるだろうか。
たまにTwitterで数年前の自分のツイートが誰かにいいねされ、通知欄にのぼってきて愕然とすることがある。こんな的外れなこと言ってたのか、みたいな。ログに直面すると、あんまり過去と地続きな気がしなくて怖くなる時があるけど、まぁそうやって都合のいいように忘れたり覚えたりしながら生きていくわけで。写真の本質も案外同じようなものかもしれないね。